パウロの回心の日に思う

今日はパウロの回心の日ですね。

パウロの回心の場面も衝撃ですね。

パウロはキリストを信じる人たちを迫害する人でしたが、

ある日に強い光に打たれるようにイエス様の声がするんですね。。


この日わたしは思い出します。

自分が洗礼を受けたいと変えられた瞬間を。

それは四旬節が始まった頃で、ある主日のいつもどおりミサに行きました。

ミサの後に神父様が「ミサの前に幼児洗礼式を行いました」と言って、その家族を紹介しました。

その瞬間!わたしは神の国を見ました。

圧倒的な平和、安心、幸福、、、、言葉にすると陳腐ですが、まさにその赤ちゃんが光って見えました!!!

もう、名前も性別の覚えてないけれど、あのときの感覚は忘れられない。

雷に打たれたみたいにってこんなこと!?


いままでは、神父様に洗礼の話をされても「う~ん。いつかは受けたいけど、今じゃないですね。」と言って逃げ回ってました。

イエス様も神様も信じていたけれど、家が熱心な仏教の家だったので、わたしがキリスト教に興味を持ったときから大騒動でした。そんななか受洗したいと思う気持ちは全く起きなかったのに、その赤ちゃんを見た瞬間、、、「わたしもあそこに行きたい!」という思いがあふれ出て止まらなくなり、帰り道を教会に戻って神父様に「わたし、洗礼受けたいです!!」っと言いました。

神父様はつい何週間か前に受けないといったわたしの変わりように驚いて、「、、、まあ、分かったから、もう少し落ち着いてからまたおいで」って言いました。笑

今思い出しても、あの出来事がなければ、わたしは今キリスト者ではないと思います。

「時」ってあるんだって思いました。


パウロの回心を思うとき、必ず思い出す話です。


まいにちアーメン いつでもフィアット

受洗6年目のカトリック信者のゆるい信仰生活

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